大阪の街が嫌いでした

大阪の街が嫌いな時期がありました。

大阪の中心であるミナミもキタも、およそ都市計画などとは無縁な感じで、
お店でもビルでもマンションでも、街の景観や調和など一切考慮せず、
それぞれが勝手に自分を主張している。
そういったごみごみとした、大阪の街が嫌いでした。

その頃は、ヨーロッパの街にあこがれてました。
ウィーンでは、景観に溶け込んだご当地仕様のマクドナルドに感動しました。
パリの公園は、美術館のように美しい彫像が並んでいたし、
無印良品MUJIも、やはり景観に溶け込んでいました。

大阪も、御堂筋や中之島あたりの美しさはよく言われます。
古き面影を残す通りも、たくさんあると思います。
ですが、通り1本、筋1本違えると、もう世界は変わります。
街全体としての一貫性がない。

そんなこんなで、無性にヨーロッパの古い街並みに憧れた時期がありましたが、
いつの頃からか、その考えが変わってきました。

確かに、ヨーロッパの人は自国の建築文化といったものを、
大切にしているかもしれないけれども、それはある意味「執着」かもしれない。

日本の建築は、石ではなく木が中心だから、そもそも儚い。
おまけに、常に地震や台風といった自然災害にさらされている。

壊れていく建物にアイデンティティを投影するような「ケチな」発想はないのでは?
だから街の景観云々にもこだわりがなく「なんでもあり」なのでは?

と、大阪の街を肯定的に捉えてみようと思うようになりました。
発想の飛躍はあるけれど、あながち間違っていないと思います。

ごみごみした大阪の街ですが、いたるところに公園があり、桜があります。
桜の下には提灯がぶらさがり、お花見が繰り広げられます。
我々のアイデンティティは、こういった自然によって守られているのだな、
と思うようになりました。

日本は四季の変化が美しい国です。
春の桜、夏の花火、秋の紅葉、冬の雪、とそれらを生活の中で楽しむ国民性です。

人間の作り出した建造物など、しょせん自然の前ではちっぽけなものだ。
そんなちっぽけなものに、こだわりを見せても仕方がない。
なんでもありでええじゃないか、と。

街の景観などより、街から桜がなくなることの方が大問題かもしれません!

今は、大阪の街が好きです。
食べ物は安くておいしいし、お買い物するには困りません。
やはり、住めば都ですよ。