節分の朝に1

20歳で亡くなれば「早過ぎる」と言われ、50歳で亡くなれば「まだまだ」と言われ、90歳で亡くなれば「よく生きた」と言われる。果たしてそうだろうか。

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朝の電話。いつの日か来る事を覚悟していた電話。何も考えずまずは祖母のもとへ駆けつける。

その日に駆けつける事の出来た者達は、目を見る事と声を聞く事は叶わなかったけれど、力強く手を握り返してもらえた。

耳だけは最後まで聞こえているという。不思議と歯ぎしりの続いた時もあったと聞くが、祖母を慕う者達に囲まれている時の寝息は穏やかであった。まるで一緒に話しをしているかのように感じたのは、決してこちらの勝手な幻想だけではないと思う。

転倒が先か血管が先か、それは分からない。もう少し早く気付いてもらえなかったかと「もしも」の嵐はとめどもない。

90歳も過ぎればいつ何が起きても仕方がないと、世間一般には言われる。けれど、一般論と個々の話はまた違う。

肌の色つやは美しく、内臓も元気で自分の歯もたくさんあり、おだやかに100歳を祝うはずだった。「ここまで生きたから仕方がない」とは思わない。

脳の右側の真黒の部分がゆっくりと左側へ進もうとする一方、倒れた時に出来たであろう頬の傷はみるみるうちに治癒していく。身体は生きようとしている。

真黒の影が脳幹に達するか否か、たったそれだけの事が命を左右する。その影は確かに身体の中の出来事でありながら、何か外からの侵襲のようにも思えた。